真野亮哉
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真野亮哉(まの りょうや、1977年9月10日-)は、大阪府岸和田市生まれのプロ野球選手。宮崎ファイターズ所属。
ポジションは投手。右投げ右打ち。背番号は10。
豪快なピッチングフォームから繰り出される直球とカーブが武器。気迫のこもったピッチングスタイルが特徴。
現在 | 現役選手 |
所属球団 | 宮崎ファイターズ |
国籍 | 日本 |
出身地 | 大阪府岸和田市 |
生年月日 | 1977年9月10日(32歳) |
身長 | 173p |
体重 | 72s |
血液型 | A型 |
守備位置 | 投手 |
投球・打席 | 右投げ右打ち |
プロ入り年度 | 1994年 |
ドラフト順位 | 2巡目 |
背番号 | 10 |
英語表記 | R.MANO |
年俸 | 4600万円(推定) |
経歴
◆ PL学園高 - オリックス(1994年 - 2002年) - ヤクルト(2003年 - 2005年) - 中日(2006年) - 宮崎(2007年 - )
略歴
◆ 1993年11月
ドラフト2巡目でオリックス・ブルーウェーブに2位指名され入団。
◆ 1994年
シーズン終盤に中継ぎでちょろっと出場。ルーキーにしてなかなかの投球を見せる。
◆ 1995年
主に中継ぎで登板し、防御率3.08とチームの優勝に貢献した。
◆ 1999年
この年からストッパーに転向。17Sを挙げ、チームは3位に終わる。
◆ 2002年
24Sを挙げるが、チームは最下位転落。真野は国内他球団への移籍を視野に、FA権を行使することを表明。
ヤクルトスワローズ、西武ライオンズ、福岡ダイエーホークスとの入団交渉の末、ヤクルトスワローズへの移籍が決定。
背番号12、3年契約で入団。
◆ 2003年
春先に3連続救援失敗を喫してしまうが、夏に入ると12連続セーブを挙げ、最終的には23S、防御率3.24を記録。
◆ 2005年
3年の契約期間が終了する今季、シーズン終盤の9月27日、突如、前原明との交換トレードで中日ドラゴンズへ移籍。
背番号28。
◆ 2006年
先発転向を打診され、先発に挑戦。しかし1勝7敗と大きく負け越し、最終的には3勝12敗、防御率5.76でシーズンを終える。
案の定、戦力外通告を受け、自由契約となる。
◆ 2007年
トライアウトを経て、宮崎ファイターズへ入団。背番号10。中継ぎに戻る。
エピソード
◆ 現在は直球勝負で力押しするが、高校時代はサイドスローの軟投派投手だった。
◆ 実年齢よりかなり若く見える。2009年で33歳になる現在も、未だに高校生や大学生と間違えられることがある。
◆ 頭の回転が早い。大人のDSトレーニング(通称・脳トレ)では、1発目で脳年齢22歳を計測した。
◆ 尊敬する投手は工藤公康。
◆ 自身の目標は『40歳になっても現役。』
◆ 牽制が巧い。
◆ コンソメパンチのポテトチップと薄味の野菜スープが好物。
◆ 小学生の頃は歯科医師になりたかったらしい。理由は『ドリルでチュイーンできるから。』
背番号
◆ 36(1994年〜2000年)
◆ 27(2001年〜2002年)
◆ 12(2003年〜2005年)
◆ 28(2006年)
◆ 10(2007年〜)
年度別打撃成績
年度 | 球団 | 背番号 | 勝利 | 敗戦 | セーブ | 防御率 |
1994年 | オリックス | 36 | 1 | 1 | 1 | 3.61 |
1995年 | 3 | 4 | 2 | 3.08 | ||
1996年 | 2 | 5 | 0 | 4.00 | ||
1997年 | 1 | 2 | 1 | 3.32 | ||
1998年 | 0 | 1 | 0 | 3.11 | ||
1999年 | 2 | 4 | 17 | 3.56 | ||
2000年 | 1 | 2 | 20 | 3.37 | ||
2001年 | 27 | 0 | 6 | 16 | 3.97 | |
2002年 | 2 | 2 | 24 | 3.20 | ||
2003年 | ヤクルト | 12 | 3 | 1 | 23 | 3.24 |
2004年 | 0 | 2 | 15 | 3.55 | ||
2005年 | 0 | 4 | 12 | 3.89 | ||
2006年 | 中日 | 28 | 3 | 12 | 0 | 5.76 |
2007年 | 宮崎 | 10 | 5 | 5 | 2 | 3.82 |
2008年 | 2 | 3 | 3 | 3.76 | ||
2009年 |
※ 表中の太字はリーグ最高記録。
タイトル
スパイラル・リーグ |
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